創立110周年記念企画 秩父鐡道110年の軌跡
第4回 奮闘期(その1)
〜日本鉄道史に残る大英断〜
熊谷〜秩父間が鉄道で結ばれたことで、秩父銘仙の販路拡大、木材の筏流しから鉄道輸送への転換など沿線の産業や人々の生活に活況をもたらし、社業は好転しました。大正5年には、大宮町が秩父町へ変更するのに伴い、社名を上武鉄道から秩父鉄道と改称し、その後も線路延長や合併、自動車業、電化導入など次々に事業を拡大していきました。
2代目社長の柿原定吉氏は、武甲山が石灰石の宝庫である事に着目。大正6年秩父〜影森間を延長、翌年9月には貨物専用の武甲線が開通しました。しかし、輸送量が激増したことで蒸気機関車による旅客と貨物の混合輸送に限界がみえはじめました。そこで安全で大量輸送が可能な電化導入を決定し、大正11年1月熊谷〜影森間全線の電化工事が完成しました。これは現存する私鉄(地方鉄道)では最古といわれ、国鉄の東海道本線よりも早かったといいます。
その一方で、羽生〜行田間で鉄道工事を進めていた北武鉄道会社と合併し、更に会社は発展しました。
電化完成当時の新造電車
=電化完成当時の新造電車=
電車の車体は大阪梅鉢鉄工所へ、電気機器はアメリカのウェスチング社へ発注し、電車3両で運転を開始しました。しかし、電気機関車はアメリカからの輸入が遅れ、しばらくは蒸気機関車との併用が続きました。